徳宗の跡を継いだ順宗は在位半年で死去し、これを憲宗が継ぐ。
即位早々の806年、西川節度使(四川西部)の劉闢が勢力拡大を目指して東川(四川東部)を攻撃したので、これを討伐して劉闢を捕らえて斬刑に処した。これを手始めに夏綏銀節度留後の楊恵琳、浙江西道の鎮海軍節度使の李錡を討伐する。更に河朔三鎮をも討たんとするがこれは失敗に終わる。しかし憲宗はこれに挫けず、淮西の呉元済を滅ぼす。
この憲宗の態度に驚愕した藩鎮側も朝廷に対して恭順な態度をとるようになり、平盧の李師道・成徳の王承宗は自ら領地の一部を返還し、横海軍の程権は二州全ての領地を返還して藩の歴史を自ら絶った。しかしこの成功にも憲宗は満足せず、平盧の返還の履行が遅れたことを理由にこれを攻撃して滅ぼした。
反側藩鎮として長い歴史と強大を誇った平盧が滅ぼされたことに藩鎮側は更に強い衝撃を受け、魏博の田弘正が領地を返還して入朝する。憲宗は820年に宦官により殺されるが、その後も成徳・廬龍もまた朝廷に領地を返還し、ここに河朔三鎮平定も成ったのである。
黄巣の乱まで
しかしその状態もすぐに崩れ、三鎮の旧武将たちが再び藩の権力を掌握し、自らを藩師として認めるように強談し、朝廷側もこれをやむなく認めた。これに呼応するように他藩鎮でも再び自立の動きが出たが、朝廷はこれに対しては断固たる態度で臨み、これを許さなかった。
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これ以降、それまで藩師には多くが軍人出身の者が就けられていたのを士大夫出身の者を就けるようになった。また藩鎮の勢力を削り、それまで藩鎮の下部組織と成り果てていた州およびその長官たる刺史も中央直属としての実態を取り戻し、唐朝廷は中央政府としての面目を取り戻した。
しかし士大夫出身の者を藩師に就けることはその下の兵士たちの反感を生み、上級兵士たちは気に入らない藩師を実力をもって追い出し、自らが支持する人物を藩師に立ててこれを朝廷に認めさせるようになった。このような兵士のことを驕兵と呼び、驕兵は戦闘のときにも十分な恩賞が約束されねば戦おうとせず、藩師がわも驕兵の意を迎えるために苦慮することになる。
また藩鎮の勢力を削った結果、藩鎮の抱える兵力が減り、それら軍隊に吸収されていた人員が世に溢れるようになった。元々このような募兵に応えるようなものは多くが自らの土地を持たない客戸であり、軍隊からあぶれてしまえば職も無く、多くが匪賊となった。
このようなことに加え、朝廷は宦官によって牛耳られており、綱紀頽廃も甚だしく、社会全体に急速に不穏な空気が醸成されていった。その結果が黄巣の乱となって顕れる。
唐滅亡から五代
唐は黄巣の乱によって致命傷を受け、形骸のみを残して、実質上は滅亡した。朝廷の権威が衰え、天下は再び朱全忠・李克用らの藩鎮勢力が合い争う時代となる。
907年、朱全忠により禅譲劇が行われ、唐は完全滅亡、五代十国時代へと入る。
五代でも藩鎮割拠の風は変わらず、敵対関係であった後梁・後唐を除いて五代の変遷は全て旧王朝の節度使職にあった者が旧王朝の皇帝を滅ぼして自ら皇帝となったものである。
北宋の太祖趙匡胤もまた後周の宋州節度使職にあり、後周皇帝より禅譲を受けて建国した。しかし趙匡胤は前轍を踏まないために、宴の席で酒を飲みながら部下の節度使たちに引退を勧め、更に新たに通判の職を置いて節度使の行政権をこれに移し、最終的に節度使を名誉職にすることに成功した。この後、金・モンゴル帝国との戦いまで、宋において軍人勢力が勃興することはなかったのである。